「心理療法個人授業」

河合準雄さんが先生、南伸坊さんが生徒となって、心理療法のあれこれを語る本です。大学で受けた「カウンセリング概論」で習った内容も出てきました。あの頃はなんとも思わなかったのに、今この本を読んで「ほうほう」とか「うんうん」となるのは何なんでしょう。それだけ授業を真剣に聴いてなかったということなのでしょうか。もったいないことです。

心に残った文章と感想。

「頭の中身を外に出す」ことは、実に大切だ。頭の中だけでやっていると、堂々めぐりをすることが、外に出してみると、思いがけない方向に動き出すのである。
「外に出す」という意味では、文章にしてみるのもよい。しかし、生身の人間に向かって言うのは、またそれとは異なる味がでてくるのだ。単に「中のものを外に出す」以上の意味が生じてくる。

日記を毎日書いていて、このことを実感しています。悶々としていることでも書いているうちにすっきりしてきたり、もやもやしていることでも輪郭が見えてきたりするのです。河合先生は「生身の人間に向かって言う」ことも薦めていますが、私は、よく知ってる人間に対して自分の弱さをさらけ出せない愚かなかっこつけなので、今は、書くことに頼りたいと思います。

マジメすぎるんだ。というセリフをよく聞きます。なぐさめる意味もあるんでしょうが、これは、私は誤解をまねく表現だと思います。「マジメ」というのは「いいこと」になってるわけですから、それが少しくらい「すぎ」たって、悪いわけじゃないだろ、と思ってしまう。
問題なのは、マジメなことではなくて、不適当なところなんでした。マジメであってもマジメすぎてもいい。テキトーであればいい。ということであろうかと思います。

これは南さんの文章です。ハッとさせられました。「マジメ過ぎる」だと自分が悪くないと思ってしまいがちですが、「不適当」だと自分に問題があるととらえやすい。表現の仕方が違うだけなのに、これだけ印象ががらっと変わることに驚きました。夏樹静子さんの「心療内科を訪ねて―心が痛み、心が治す」を読んで以来、自分自身の否について考えていましたが、この文章でまた一歩前に進めたような気がします。

分析家になるためには教育分析を受けねばならない。自ら転移・逆転移の経験をしつつ、それに関する知識を身についたものにしなくてはならない。それでも不十分で、自分が分析をするようになっても、それについて個人指導(スーパーヴィジョン)を受けねばならない。そのような経験の積み重ねによって、南さんの言う「テキトーなアンバイ」が自分のものになってくるのだ。

これは河合先生の文章です。分析家は、治療の際に起こりうる自分の感情の変化を転移や逆転移だと気がつくために、分析を受け自らを知るという説明です。この文章を読んで、夏樹静子さんの「心療内科を訪ねて―心が痛み、心が治す」と松本昭夫さんの「精神病棟に生きて」を思い出しました。夏樹さんも「気付く」という言葉を使い、自分の問題点を受け止めることの大切さを述べていました。そして、松本さんも、病識があると回復しやすいと書いています。最近読んだ本がリンクすると、その偶然に驚いてしまいますが、本当は、夏樹静子さんの本で衝撃を受けたために、同じような部分に強く反応しているのだと思います。

発見的にわかる道を共にするためには、「わからない」と自覚する謙虚さがひつようだが、これは、自信がないのとは、全く異なる。自信のないのは、はなから何もわからない人である。「わかる」に「わからない」をつなぐ人は、「わかる」自信と「わからない」謙虚を共存させている。

南さんの考えを受けての河合先生の言葉です。知りたがりの私は、何かの知識を得ると、自分は「わかる」のだと安心していることがあります。「わかる」と思い込んでいる人は、そこまでしかいけない。そのことの方が、よく考えると、怖いことです。「わからない」謙虚さこそ、私が忘れてはいけないことだと感じました。

河合先生の話は、かならずこんなふうに、遠いところでワカルような、奥の奥の、底の底の、深い深いところでは実はわかっていたような、そんな不思議な感じがあります。
遠いところでわかった気がして、一目散にもどってきてみて、握っていた手を開いてみると、なにかケムのようになって、ウヤムヤになってくような。そういうわかりかた。

河合先生の授業を終えての南さんの感想です。深く頷いてしまいました。私が興味深い心理や精神の本を読んだときに抱く言葉に表せない不思議な感覚を、見事に文章に表してくれています。一方的に押し付けるタイプの本では感じることのない、この感覚。こういう読後感を得られる本は、全部わかりきることができなくても、不満を感じません。

心理療法個人授業 (新潮文庫)

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